まなびしごとLABの風間です。
こんにちは!

2026年3月13日(金)、連載「『サード・ラーニング』のすすめ」の第5回「社会」が求める探究と「自分」のための探究 ~ 私たちにとって「探究」とは何か ~」をnote上で公開しました。

今年から始めた連載企画の第5回です。

noteで公開中ですが、こちらにも転載していきます。

(noteへのリンク)
【連載】「サード・ラーニング」のすすめ:第5回「社会」が求める探究と「自分」のための探究 ~ 私たちにとって「探究」とは何か ~|風間崇志/地域プロジェクトパートナー

第5回 「社会」が求める探究と「自分」のための探究 ~ 私たちにとって「探究」とは何か ~

1 はじめに

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今、社会では「探究」という言葉が急速に広がりを見せています。

かつて「学び」といえば、あらかじめ用意された正解をいかに効率よく習得するかが重視されてきました。
これは第3回の連載で取り上げた、効率性や正確性を重視する行動主義や認知主義の領域です。

しかし、現代のような「VUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)」と呼ばれる不確実な時代には、既存のルーチンをこなすだけでは問題の処理が困難になっています。
ちなみに最近では、「BANI(バ二)」という言葉も出てきているそうです。

BANIとは、Brittle(もろい)、Anxious(不安な)、Non-linear(非線形な)、Incomprehensible(理解不能な)の頭文字をとったもので、VUCAという言葉では説明しきれないほど、今の世界はより深刻でカオスな状態にあるという考えから提唱されたものだといいます。

特に、生成AIの劇的な進化は、この流れを加速させています。
正解のある問いに答えるスピードや正確さでは、人間はもはやAIに敵いません。
ビジネスの世界においても、前例のない課題に対して自ら問いを立て、試行錯誤を繰り返しながら、その時々の最適解を導き出す力が、職種を問わず決定的な資質として求められるようになりました。

この「自ら問いを立て、試行錯誤を繰り返しながら、その時々の最適解を導き出す力」は、高校の総合的な探究の時間の中でも重視されており、いわば「探究する力」であるといえます。
つまり、社会全体が「探究する力」を求めており、この力こそがこれからの社会を生き抜くための新しいOSになってきているのです。

こうした社会全体の探究へのシフトを受け、学校教育の現場では探究が大きな学びの柱の一つに位置づけられています。
総合的な探究の時間の必修化をはじめ、大学入試における総合型選抜の拡大など、教育システムそのものが再編されつつあります。

しかし、一方で、実際の現場では理想と現実のズレが生じてきているように思えます。

そこで今回は、ここ数年、私が関わっている学校教育(特に高校)における探究の分野を取り上げ、探究が本来持っている意義と、実際の現場で生じている理想と現実のズレの問題について考えてみたいと思います。

2.「探究」の価値とはなんだったのか

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まずは学習指導要領などをもとに、高校の総合的な探究の時間(以下、「探究」)に期待されている役割や機能についてまとめてみます。

「探究」に期待されていることとしては、大きく4つのポイントがあると考えています。

①「自ら問いを立てる力」や「他者とともに価値を創り出す力」など、予測困難な時代を生き抜くための資質・能力の育成
②「自分はどのように生きるべきか」という生き方や社会の在り方と学びとの接続
③教科横断的・総合的な知の統合
④社会や地域と連携した、開かれた教育の推進

「探究」は、従来の教科学習と補完し合う関係にありながら、その目的や学びのプロセスにおいて明確な違いがあります。

次に「探究」の主な特徴を、教科学習と比較しながら整理してみます。

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ここで気をつけるべきなのは、探究学習は教科学習を否定するものではないということです。
それどころか、「探究」の活動において気づいたことや生じた疑問が、教科学習をさらに深めていく原動力にもなりうるという側面もあるのです。
「探究」と教科学習は、二者択一ではなく、相互補完的な関係にあり、いわば「探究」は、教科学習で身に付けた知識を社会とつなげ、新しい知識を生み出したり、技能を身につける実践の場であるといえます。

以上を踏まえ、「教えること」が優位だった学校教育において、「探究」が学びの柱の一つに位置づけられたことは、以下の3つの点で大きいと考えています。

①学びの主語は「私」であるという当事者意識に重点
②「正解」という枠からの解放
③自己と社会との関わりのきっかけ

この3つは学校教育における「探究」の大きな価値だといえるでしょう。

3 「評価」される「探究」

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冒頭でも述べたように、最近、学校教育に限らず、探究という言葉が広がりを見せています。
特に、その中でも高校での総合的な探究の時間をはじめとする「探究」活動には注目が集まっています。

ただ、一方で「探究」の広まりとともに、コンテスト形式の発表会で順位を競ったり、大学の総合型選抜(旧AO入試)の実績づくりとして探究が活用されたりする事例が多くみられるようになってきました。
社会の関心が高まるのは喜ばしい反面、私はこうした現状に強い違和感を抱いています。

なぜなら、そこには「探究」に対しての社会の「評価」による弊害ともいえる歪みが生じているように思うからです。

弊害というのは言いすぎかもしれませんが、先ほど挙げた3つの「探究」の価値を考えたとき、その価値を損なってしまいかねない影響が生じているのは確かです。

どういうことかというと、本来、「探究」とは自己理解に深く根ざした好奇心から始まるものです。
それは誰に強制されるものでもなく、極めて個人的で、時には「利己的」な動機からスタートしてもいいはずです。
「ただこれが好きだから」「どうしてもこの謎を解き明かしたい」「なんとなく気になるから」といった純粋な衝動こそが、困難に直面しても学びを継続させる最強のエンジンだと思うからです。

同時に、そうした衝動は、従来の教えることが優位な教育の中では、極端にいうと「抑圧されていた」ものであり、「探究」は本来持っていた自己の衝動を思い出させる場になっていたと思うのです。

確かに頑張った成果を評価されたときの達成感や喜び、誰にも負けたくない・勝ちたいという競い合いの中での成長の大きさを否定することはできません。
むしろ頑張ったことや積み上げられた成果は大いに評価すべきことだと思います。

しかし、評価されることや勝利が目的化してしまうのは違うのではないかと思うのです。

たとえば、少し前ではSDGsといった流行りのテーマや社会貢献など、評価されやすいと思われるテーマを選んだり、見栄えの良いスライドのつくり方、良い評価を受ける傾向にあるプレゼンテーションの技術ばかりを気にしてしまうといったことなどが起こると耳にしたことがあります。
もちろんそうした努力は否定するものではないですが、果たしてそれは本当に自分のやりたいことなのか、自分の中から湧き出た問いなのかと疑問に思ってしまいます。

これは、結局は外部のモノサシ、社会から求められることや評価基準に合わせた「正解」らしい振る舞いに寄っていってしまっているのではないかという違和感です。

社会貢献という言葉についても、社会をより良いものに変革しようとする志は尊いものですが、評価されるために社会貢献を行うというのは本末転倒ではないかという気がするのです。

この傾向が強まると、せっかく自己を深掘りしたことで生まれた探究の営みが、自己評価ではなく、再び他者評価に絡めとられていってしまいます。
他者の視点ばかりを気にする「探究」は、かつての「正解」を探す学びと同じ構造に陥ってしまうリスクを孕んでいるのです。

「探究」の現場でしばしば耳にする、「やりたいことがない」「なにをやっていいかわからない」という言葉は、もしかすると「社会や教師が期待するようなことで自分が何をすべきなのか」に頭を悩ませているということなのかもしれません。

「評価」という問題については、またどこかで改めて取り上げて、しっかりと考えてみたいと思います。

4.「自分」のための探究に向けて

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では、サード・ラーニングを志す者として、探究をどのように捉え直すべきでしょうか。

最も大切なことは、「他者」に委ねないことです。
自分で決め、自分で評価するという態度。
これは探究に限らず、学び全般において極めて重要な姿勢です。

私はここ数年、地元の県立高校などで総合的な探究の時間のサポートをさせていただいています。
そこでの先生方との対話や生徒たちの活動を間近で見ていると、「何をさせればいいのか」「どう評価すればいいのか」と悩んでいる先生方や、「何をすればいいかわからない」「なんのためにやるのか分からない」とモヤモヤしている生徒さんたちを数多く見てきました。
既存の学校や教科書という枠にとどまらず、正解のない、手間と面倒がかかるの「探究」だからこその悩みです。

しかし、私はそこにこそ本質的な価値があると考えています。
「探究」の現場ではよく問題発見能力やコミュニケーション力の大切さがいわれます。
もちろんそれらを身につけることは大切なことだと思うのですが、それらのスキルは後からついてくる「おまけ」のようなものにすぎないと考えています。

探究には決まったテキストも正解もありません。公序良俗に反しない限り、何を対象にしてもよく、どこまで深めても自由。
だからこそあらかじめ身につく力もその度合いも限定することはできない。
活動のプロセスの中で、あるいは終わった後で振り返ってみて、はじめて「こういうことなのかもしれない」という気づきが起こったり、「次はこうしたらどうだろう」という新たな着想が生まれるのだと思います。
「探究」においては振り返りが重要というのはそのためです。

例えば、ある生徒が「近所の川のゴミを減らしたい」という素朴な動機で活動を始めたとします。
最初は単純な清掃活動でも、調べていくうちに「なぜここにゴミが捨てられるのか」という問いが生まれ、さらには「なぜ人はゴミを捨ててしまうのか」「ゴミがなくなったらまちにどんな変化が生まれるのか」という社会学的な問いにまで発展していくこともあります。
その過程で、まちの人に話を聞いたり、専門家に連絡を取ったり、膨大なデータを読み解いたり、まちを歩いて回ったりする中で、結果として知識やスキルが身についていく。
知識やスキルを身につけるために学ぶのではなく、夢中で動いていたら、いつの間にか力がついていたという状態こそが、「探究」による学びだと思うのです。

関心の向く方向は人それぞれ十人十色であって、そこで何が得られるかはコントロールすることはできないのです。

逆にいえば、そこでの学びの価値を決めるのは学校でも教師でも審査員でもなく、探究の当事者である「自分自身」です。
「自分はこれに関心がある」「これを突き詰めたい」という自分だけの好奇心や「もっと知りたい」といった探究心。
そして、活動の中で生まれる思いがけない人との出会い。
評価の枠に収まるのではなく、その枠をはみ出してしまうほどの衝動は、自分を動かすモチベーションとなり、ときには周りの人を動かしてしまうほどのエネルギーを持つことがあるのです。

私たちは今一度、探究や学びの主権を「他者」から「自分」へと取り戻す必要があるのではないでしょうか。

5.おわりに

今回は高校における「探究」の問題を取り上げ、探究という学びの形について考えてきました。

学校での授業の一環でありながら、学校の枠を飛び出す「探究」には、今後もさまざまな課題や悩み、発展可能性があると考えています。
そのとき、主体として考えられるのは、まず生徒である子どもたち。
でもそれだけではありません。
「探究」する生徒の周りにいる大人たちも、探究の当事者になっていく必要があると思います。

なぜなら探究は学生時代に終わるものではなく、むしろ、自分を突き動かす衝動という学びのエネルギーや他者のモノサシに縛られない自己評価は、社会と関わり続ける上でますます必要不可欠な要素になっていくと思うからです。

では大人の探究はどこで実現しうるかというと、日々の家庭での生活や仕事などでなかなか時間がとれない、きっかけがつくれない、続けられないという方も多いのではないかと思います。

そんなときに、探究における自己の衝動は、そうした忙しさを乗り越えるためのエネルギーになります。
つまり、サード・ラーニングには探究的な要素が必要不可欠ではないかと思うです。
もちろん大人だけでなく、子どもも一人の学び手として、お互いが学び合える場であればなおいいですね。

探究は、サード・ラーニングにおける一つのキーワードになりそうです。

これまでの連載

第4回
【連載】「サード・ラーニング」のすすめ:第4回 「いきあたりばっちり」を育む学びの土壌とは? 〜 キタサカまちづくり部を例に 〜(実践編02) – まなびしごとLAB

第3回
【連載】「サード・ラーニング」のすすめ:第3回 学びの「地図」をアップデートする ~ 「学び」の変遷からサード・ラーニングのヒントを探る ~ – まなびしごとLAB

第2回
【連載】「サード・ラーニング」のすすめ:第2回 共創による学びを俯瞰する ~ 地域連携プロジェクトから紐解く「学びの生態系」のヒント ~ – まなびしごとLAB

第1回
「【連載】「サード・ラーニング」のすすめ」をスタートしました(2026年1月15日) – まなびしごとLAB

番外編
【連載:番外編】「サード・ラー二ング」のすすめ:参考書籍①『学びのコミュニティづくり』|風間崇志/地域プロジェクトパートナー

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