「まちづくり」の本を書いています

今、「まちづくり」の本を書いています。
昨年(2020年)7月から書き始め、まさについ先日、最終校正を終えたところです。

「ときがわ町でしごとをつくる人」に焦点を当てた本で、タイトルは『地域でしごと まちづくり試論 ~ときがわカンパニー物語』
2021年2月20日前後に刊行される予定です。

そんなことや2020年3月まで公務員であったこともあって、改めて「まちづくり」について学んでみたいと思い、手に取ったのが本書『まちづくりの発想』でした。

なんと発行が1987年12月ということで、今から30年以上も前の本です。
それなのに、内容を読んでみて驚きました!
私が本の中で書いたのと同じようなことが、この本でも書かれていたからです。

一応断っておきますと、盗作ではありません笑

でも、ホントにパクったんじゃないかと思われそうなくらい、似通った表現もありました。
むしろ本を書く前にこの本を読んでいたら、影響を受けすぎてパクらずにはいられなかったかもしれません。
それを考えると、書き終えたあとに出会ったのは幸運だったのか、不幸だったのか・・・。

きっと幸運だったんでしょう。
だって自分で本を書くことで、私の中にあった「まちづくり」に関する考えを深掘りし、言語化することができたのですから。
その上で本書を読んで自分の考えと比較することで、より「まちづくり」に関する理解と関心が深まった気がしています。

そもそも「まちづくり」って何?

これから「まちづくりとは何か?」について私の考えを書いていきたいと思いますが、「何を偉そうに」と思われる方もいらっしゃるかと思います。
最初にお断りしておきますと、ここから述べていくことは私個人のイチ「まちづくり」論にすぎません。
これが唯一絶対の正解というつもりも毛頭ありません。
すでに拙著の執筆中にも、「まちづくりの成功とは」を巡って出版社の方との壮絶な舌戦もありましたし笑

それでいいと思うのです。
まちとの関わり方は人それぞれですし、どう関わっていきたいかということも個人が決めればいいことです。
なので、ぜひご自分でも「まちづくりってなんだろう」ということを考えてみてください。
そうしたら、私が本を書くことで試みた狙いは成功したことになります笑

さて、前置きが長くなりました。
本題の「まちづくりとは何か?」について、本書を読んだ上で、改めて考えてみました。

拙著『地域でしごと まちづくり試論』(拙著っていい響き!)でも述べていることとほぼ同様なので、詳細はこちらをお読みいただくとして、本稿で述べたいのは以下の3つです。

①まちづくりは人づくり、しごとづくり

②まちづくりは現在進行形

③まちづくりは行政だけのものではない

順にご説明していきましょう。

①まちづくりは人づくり、しごとづくり

『地域でしごと まちづくり試論』最終校正原稿

詳細は拙著をお読みくださいと言いつつ、若干ネタバレになるのですが、やはりここは拙著での主張の根幹となる要素なので簡単に触れておきます。

結論から言うと、「まちづくり」とは「人がまちをつくる」ことであり、「まちをつくる人をつくる」ことということです。
要は、まちの担い手をつくることが、イコールまちをつくるということです。

当たり前のようですが、考えてみてください。

「まちの担い手」と呼べるような人があなたのまちにどれだけいるでしょうか?
もっといえば、あなたは「まちの担い手」になっているでしょうか?

この「まちの担い手」であるかどうかの一つの判断基準が、地域での「しごと」があるかだと私は考えています。
ここでいう「しごと」とは、単に経済的活動ということではなく、もっと広い地域での役割や自分がやりたいジブンゴトとしての「しごと」を意味します。
こういう「しごと」は、地域での社会的価値を生み出します。
熱量のこもった志のある「しごと」をつくる人が、まちをつくる担い手になるというのが私の考えです。

と、偉そうなことを言っていますが、私自身、2020年に公務員を辞め、埼玉県ときがわ町を中心とした地域での「しごと」づくりを始めたばかりの身です。
その中でも一ついえるのは、たまたま採用された職場ではなく、「自分で働く場所を選んだ」という実感があることです。

そういう地域での「しごと」はジブンゴトとして楽しいし、好きな仲間としごとができることで大きな喜びを感じています。
また、暮らしと「しごと」が近いことも魅力です。
いわば「営み」。
このような一人一人の営みが集合して、まちがつくられているといえるのではないかと思います。

『まちづくりの発想』でも、次のように述べられています。

・仕事(シゴト)づくりは、働き、収入を得る場を確保することであり、暮し(クラシ)づくりは、便利で快適に暮らせる日常生活が営めるようにすることである。経済的基盤をどう確保するかは、地域にとって大問題であるし、日常生活の中身の充実も、地域の最終目標である。この二つは地域経営の究極的課題である

暮らしと仕事がまちの両輪であることがわかりますね。

②まちづくりは現在進行形

「まちづくり」は「ものづくり」に似ていますが、決定的に違うのは「まちづくり」には終わりがないことではないかと思います。

本書では次のように述べられています。

・「まちづくり」は、終わることのない夢であり作業である。「まち」がそこにある限り続けられてゆく作業である。・・・すぐに結果は出にくい。しかし、だからこそ、壮大な夢をえがくことができる。今はできなくても、未来へ夢を託すことができる

「まちづくり」には完成がありません。
少なくとも、「まちづくりが完成した!」ということは、私は耳にしたことがありません。
(土地区画整理事業などによる一定の地域の工事完了を指す場合は別として)

その時その時で、目指すまちの姿というのも違います。
一人一人にとっての理想のまちの姿も違います。
つまり、まちは変わりつづけるものだということです。

その前提に立つと、まちは「変えられる」ものであることが自明となります。
そして、小さいまちほど、まちへの関わりが近いほど、強いほど、自分が起こしたアクションによって感じられるまちの変化が大きくなることに気づくのではないかと思います。

問題は、まちに自分が関わろうとするかどうか。
だからといって別にまちに対して直接何かをする必要があるわけではありません。
私は「まちづくりをする」という動詞はないと思っています。
何かをした結果が、まちを良くすることにつながることはあっても、直接まちを良くするために何かをやるというのはどうもおこがましいような気がするのです。

それに、まちが喜んだり、微笑んだりしてくれるわけでもありません。
喜んだり笑顔になったりするのは、人なのです。
やはり自分が何かをしたことに対して喜んでくれる人が目の前にいるというのは、嬉しいことですし、モチベーションも上がりますので。

何が言いたいかというと、地域に役割ができると、地域の人との関わりが増えて、必然的にまちとの関わりが増えてきます。
そして、そこで役割を果たすことが、まちを変えることにつながるということです。

③まちづくりは行政だけのものではない

これ、けっこう誤解している人がいるのではないかと思います。
「まちづくり」は公務員の専売特許ではありません。

私が公務員時代に聞いた中で驚いたのは、「●●市っていう名称は使っていいの?」と聞かれたことです。
会社や団体名で直接「●●市」だけを用いるならばともかく、たとえば「●●市ファイターズ」などのような野球チームの名前として使うことも法令などで禁止されていると思っていたようなのです。

また、こんなこともありました。
よく聞かれた言葉で、「商店街が廃れるのは市の職員が何もしてくれないからだ」というのがありました。

これもおかしな話で、商店街で商売をしているのは一人一人の店主のはずです。
それなのに、自分たちは何もせず(しているのかもしれませんが状況が上向かないことに対して)、市役所だけに責任を押し付けるのは違うと思うのです。

もちろん市役所が何もしないでいいというわけではありません。
市役所の職員も、商店街を盛り上げる必要があると判断するならば、そこは一緒に取り組むべきです。

私が疑問に思った市役所職員の態度として、こんなことがありました。
まちの最上位計画といわれる総合振興計画の見直しに向けて、自治会の役員や市民の方との懇談会を行ったときのことです。

「皆さんにこの地域をどうしたいか考えていただき、決めていただきます」

一見、住民を尊重してるようですが、私はこの言葉を聞いて違和感を持ちました。
「じゃあ、あなたたちはこの地域をどうしたいと思っているの?」

市役所がまちをどうしたいのか、この地域がどうあるべきと考えているのかがまったく見えなかったからです。
相手の意見を尊重することと丸投げは違います。
立場が違う者同士で議論を尽くし、お互いが納得できる形でまちの将来像を創造していくのが、本来の対話のあるべき姿ではないかと思ったのでした。

「まちづくり」は行政だけのものではないし、住民や民間企業だけのものでもありません。
まちに関わるすべての人、団体、組織が、主体となって共創していくのが本来の「まちづくり」ではないかというのが私の考えです。

その中で、それぞれのプレーヤーが強みを活かして役割を果たしていく。
それができたらきっと「まちづくり」がもっと能動的で楽しいものに変わるはずです。

強引なまとめ

以上、「まちづくり」がテーマということで、少々(?)長くなってしまいました。

とにもかくにも、30年以上前に書かれたこの本が、私の中にしっかりと根を張ったように思います。
『地域でしごと まちづくり試論』の執筆も相まって、「まちづくり」への熱が再燃した1月でした。

30年以上前に書かれたとはいえ、現在に通用するような、いやむしろ現在にこそ生きそうな内容もたくさん含まれています。
まちづくりの軸になる考え方を提供してくれる基本書的な位置づけになりうる本だと思いました。

以下、本書で印象に残った個所をまとメモとしてお示しします。

まとメモ

・「まちづくり」は、今日の場に立ちながらも未来へ向かい、未来へ賭ける行為である。たとえ今はできなくても、将来は変わる。望ましいと思う未来を描くことは自由である。「まちづくり」には、未来を夢見るロマンがある

・これまでの「まち」は、ほっておいてもなんとなくできてくるとか、誰か他人がつくってゆくもので、住民は受動的に住まわせてもらっているというニュアンスが強かった。少なくとも、自分は「まち」に住んではいても、「つくる」という積極的な立場はとらないし、とる必要もないと思われてきた。しかし、今日いう「まちづくり」はそうではない。そこに住んでいる人たちが自分自身の問題としてかかわりをもち、「つくって」ゆくべきだという積極的な姿勢が基本である。
住民は、まちの”借家人”ではなく”オーナー”であり、まちをつくる責任がある、という自覚の表現である

・都市と典型的なムラの本質的相違
①非自給自足性
 都市は食料、エネルギーなどの生活を支える必需物資を自給自足できない
②開放性・変動性
 自給自足でなく他に依存することは、他地域との交流を必然化し、閉鎖を許さない
③異質共同体
 都市は異質な人々による共同生活集団である
④生活共同手段
 多数の人々の生活を支えるための、さまざまな共同生活手段が無ければ生活できない
⑤非可視性
 互いの生活も、全体の共同性の仕組みや共同体そのものも見えにくくなっている

・「まちづくり」とは、一定の地域に住む人々が、自分たちの生活を支え、便利に、より人間らしく生活してゆくための共同の場を如何につくるかということである。その共同の場こそが「まち」である。
 市民の一人一人が自由で豊かに生活できるか否かは、この共同の場である「まち」ができているかどうか、にかかっている

・「つくる」対象
 ①モノづくり
 ②シゴトづくり
 ③クラシづくり
 ④シクミづくり
 ⑤ルールづくり
 ⑥ヒトづくり
 ⑦コトおこし

・まちづくりの手法は、3つの側面の統合である
 ①自然と、自然に手を加えてゆく技術との問題(ハード面、理科系・技術系)
 ②社会の意識や、生活様式、運営方法、経済・社会構造、政治・行政構造、制度などに関する手法(ソフト面、文科系、事務系)
 ③人間の心に触れてゆく手法(芸術系)

●シクミづくり
・多数の多様なヒトによってつくられる「まちづくり」の成功は、ヒトをどのようにつなげ、どのようにチエを出しあい、異なる意見を調整し、合意を形成し、実行してゆくかのシクミづくりにかかっている
・問題は、自治体が実際には市民のためのトータルな「まちづくり」のシクミとして働かず、硬直的でばらばらな行政が行なわれ、市民の側から自分たちの共同的な「まちづくり」のシクミとして十分認識され、信頼されてこなかったことである。また、市民の側にも、自分たちが責任をもって自治体を構成する一員であるという自覚が少なかった

・自治体行政はタテ割りをやぶり、統合化した想像力のある組織に変えなくてはならない。地域を超えた周辺の町と協力できるシクミも必要であるし、市民はもちろん、国や企業など多くの主体にも働きかけることのできるものにしなければならない

・「まち」をつくる基本はヒトなのだが、一人のヒトでできるわけではないし、立場の異なるヒトが、共同して生活しながら互いに見えない関係におかれてしまい、いつしか自治体も市民も互いに離れ離れになってしまったことが問題であった。まちの中にいる人々にどのようにして、共同体としての「まち」を認識させ、共同の作業へつなげてゆけるのかがシクミの最大の問題である

●シゴトづくり、クラシづくり
仕事(シゴト)づくりは、働き、収入を得る場を確保することであり、暮し(クラシ)づくりは、便利で快適に暮らせる日常生活が営めるようにすることである。経済的基盤をどう確保するかは、地域にとって大問題であるし、日常生活の中身の充実も、地域の最終目標である。この二つは地域経営の究極的課題である

●ヒトづくり
・「まちづくり」は「人(ヒト)づくり」だといわれる。どんなにいいシクミができていても、良いまちはできない。まちは、自分たちの共同の住まいとして人々の協働の力によってつくられる。まちは一部の人々のためにだけあるのではないから、中心になる人々だけではなく、まちに住むすべての人々が、まちを愛し、自分の役割を果たさなければ、「良いまち」はできない。
 そうした人々とは、まちを愛している市民意識(ココロ)をもった人々である。人づくりは、人々のココロを育てることである。まちの美しさ、なごやかさ、たのしさなど、心にうったえかけてくるものを感じとれるココロをもった人々である

・人を育てるのには、子供が基礎である。子供のころから、まちに関心を持ち、自分たちの身のまわりを知っておくことが必要である

・子供も大人もいっしょになって体験の中から地域を知り、地域を感じとる。こうしたことは、むずかしくいわなくても生涯学習だろうし、本人たちはそんなにむずかしく考えないで、生き生きと生きていたいという自然の行動なのである

・重要なのは、まちづくりの現場のリーダーである。すぐれた「まちづくり」が行なわれているところには、必ずリーダーがいる。これは、育てるというものではない、リーダーが生まれるべくして生まれてゆく土壌こそが重要なのである

・都市とは、多様で異質の人々が、互いに他の自由度を認めあいながら、交流しあい、できるだけ創造的で、多様な生活を可能にする場でありたい

・都市の時代の人々は、必然的に、都市に住み、都市的生活を強いられる。古いムラに戻すのではなく、都市に応じた新しい共同体をつくること、それが「まちづくり」である

・「まち」とは市民全体が共有のものとして自覚でき、共同に利用、活用できる場の総称である。「まちづくり」とはその共同の場を、市民が共同してつくりあげてゆくことである。
 共同の場とは、(1)共同空間、(2)共同施設、(3)共同システム、(4)共同サービス、(5)共同イベント、(6)共同文化などの総称である

・画一的な町では、市民は自分の「まち」という愛情ももてないし、共感がわかないだろう。それでは、地域に住む市民も「まちづくり」に関心をもてないし、地域にあるチエや資源を有効に働かすことにもならない。

多様な思想の展開

・まちづくりは誰でもがアプローチできるものだし、新しい発想や考え方をうちだすことも自由である。それらは開かれた場で討論してみるのがよい。自由な論議の中から、さらに新しい考え方や、考え方を実現してゆくための手法も考えられてゆく。自由に論議することによって、たとえ誰がうちだしたものにしろ、考え方を共有のものにすることができる。
 まちづくりの思想は、一人のものであってはならない。多くの人々の共有のものになってこそ、初めて人を動かし、事をおこしてゆくだろう

・「まちづくり」「地域づくり」は、地域内にある土地、金、物、そして人やチエを生かし、組合せながら、長い目で見て、暮しやすい、住みやすい場をつくることである。それは、地域資源を活用して目標を達成しようという一種の経営である

・地域全体を公平な目でとらえ、永続的に市民全体の代表として考えられる自治体が、地域経営の責任を持つべきであろう

・まちは、多数の異質の人々を取りこんでゆく。多様な人々が住み訪れる開放された「まち」は、活気と賑わいがある。異質の人々は当然異なる意見をもち、それぞれの行動様式をもつから、全体としてはまとまりにくい。しかし、共同生活によらなくては一人一人で自分の生活を維持してゆくこともできないという矛盾をかかえているのが「まち」である

・「まちづくり」は、閉鎖社会をつくることではない。他に向かって開かれていなければ、まちの活性化はありえない。情報・交通手段の発達によって、いまやどんな山奥の土地までも世界に開かれている

・「まちづくり」は、終わることのない夢であり作業である。「まち」がそこにある限り続けられてゆく作業である。・・・すぐに結果は出にくい。しかし、だからこそ、壮大な夢をえがくことができる。今はできなくても、未来へ夢を託すことができる

思想から実践へ

・思想は現場に適用してみなければならない。そうするとさまざまな反応があるだろう。それに対応できるのが、生きた思想である。いや、実際は始めに思想があるより、現場に当たって現場の問題を解くことから、発想が生まれてくることが多い。現場とのかかわりの中で生まれるのが、まちづくりの思想である

 ⇒ まちづくりの思想は実践知であり、時代を経ていろいろな人に受け継がれていくうちに積み重ねられアップデートしていく

・障害を乗り越えて実践してゆくのには、①意志、②智恵、③行動の3つのものがいる
 ①意志・・・まちを愛している人々が、まちを放ったらかしにしないで、自分たちの手で何とかしてゆこうという意志をもつことから始まる。意志は、まちづくりの発想となり、まちづくりの意義に目覚めさせ、まちづくりの思想を生み出す

 ②智恵・・・人真似ではなく、地域の個性にあった継続性のある手法をつくりだすチエがなければ意志は生きない

 ③行動・・・行動なくして、まちづくりはできない。万全の思想やチエがなくても、まず手はじめに小さなことから動きだすことによって、人も集まり、チエも生まれ、思想も育ってくることが多い。
 重要なことは、一人で始めてもよいが、たった一人ではできないということである。まちは多くの人々によってつくられているものであり、多くの市民が共感し、協働しない限り進まない。せっかく一生懸命でも、ひとりよがりの行動はかえって人々を離れさせる。
 まちづくりは同質的なムラ集団ではなく、異質の人々を取りこみ輪を広げながら、協力しあい、協働することによって動いていく。それは愉しさに変っていくはずである


 まちを愛する

・(著者がドイツのルンケルという小さな町を回ったときの話)
 150年以上もたった古い木造の家だが、なお改修している。「なぜ美しくするのか。お金もかかるでしょう」というと、もう60をすぎたこの家の主人は、「自分がずっとこの家に住んできたし、子供たちも住んでいるし、住んでもらいたい。そのとき、美しい、いい所に住んでいたと思えるようにしたいのだ」という。
 町長にも会った。「町をきれいにするのは、観光のためか」と聞くと、「この町は、大きな街道筋にもないから、ロマンチック街道のローテンブルグのように客をよぶということにはならないだろう。それよりも、自分たちの町は良い町だ、美しい町だという誇りをもちたいのだ。住んでいる人たちが誇りをもつために、自分たち自身のためにやっている」という。

・心をもったヒトが「美しいまち」をつくってゆく、そして「美しいまち」がヒトの心を育てる

・ここにあげたソールズベリー、西ドイツ、バンコクの市民たちは、「自分たちのまち」に住んでいるという実感をもっている。たとえ小さくても、貧しくても、市民たちは「まち」になんとなく住んでいるとか、住まわせてもらっているのではなく、自分たちの手で「まち」をつくり、育て、支えてきた。歴史を受けついではいるが、決して他人から与えられただけの「まち」ではない。そういう自覚が誇りになっている。誇りとは独善的な慢心ではなく、責任をもち、日常的な努力を続けているという生きた実感から生まれたものである

⇒ 「自分のまち」と感じられること、まちをジブンゴト化することで、まちへの愛着や誇りが培われる