ときがわ社中×チーム企コラボ企画「慈光寺を学ぶ会」

2022年1月27日(木)9時30分~16時、ときがわ町の老舗旅館「町田屋旅館」さんにて慈光寺に関する勉強会を開催しました。

ときがわ社中では現在、滑川町の大河ドラマをきっかけとするPR事業に関わっていることもあり、源頼朝との関わりが深い慈光寺を一度じっくり学んでみたいと思っていました。
そこでときがわ社中とチーム企メンバーに声をかけ、勉強会を企画することにしました。

今回参加したメンバーは、ときがわ社中・チーム企の栗原さん、チーム企の小林さん、なっちゃん、みっちゃん、オクムサデザインの浅見さん、ときがわ町観光協会の岡野さん、風間の7人でした。

町田屋旅館さんにて「慈光寺」の歴史を学ぶ

午前中は町田屋旅館さんにて座学。
まずは慈光寺の沿革を紐といていきます。

町田屋旅館さんは明治43年創業で、三菱財閥の創始者である岩崎家ゆかりの宿でもあったそうで、あの岩崎弥太郎も宿泊したことがあるといいます。

実は町田屋旅館さんに行くのは今回が初めて。
明治43年創業ということで歴史は感じますが、古臭さはなくむしろ「美しさ」すら感じる佇まいでした。
建物や空間の雰囲気がステキすぎました!

こんな場所で勉強会をできるなんてすごく贅沢ですね。

今回の勉強会は、町田屋さんのご主人が1年以上かけて慈光寺の歴史を独学で調べ上げた成果をもとにしたもので、Facebookで勉強会参加者を募っているのを見て申し込んだのでした。
町田屋さんが勉強会を開いた理由を聞いてみると、「地元のことを自信を持って語れる人が少なくなっている現状に危機感を抱いた」からだそうです。

そこで町田屋さんが注目したのが「慈光寺」でした。
慈光寺にはなんといっても国宝にも指定されているお経があり、そのほかにもお茶や和紙といった地域産業の成立にも深くかかわっているとされているからです。
(ただし、和紙に関しては後述するように慈光寺があったから生まれたというわけではないということがわかりました)

勉強会の様子を、私の理解の範囲でまとメモとして公開したいと思います。

慈光寺の始まり(開山から源頼朝との関わり)

(以下、町田屋さん資料より抜粋)

673年 僧・慈訓(じきん)が観音霊場として開基・・・比叡山開山(785年)より100年以上早い
770年 鑑真の一番弟子の釈道忠が開山し、仏堂を建てた
783年 清和天皇より天台院一乗法華院の勅額を賜る
797年 釈道忠教団から2000余巻の経典を最澄に奉納。円仁をはじめとする数人が最澄の弟子になる
    → 最澄の後を継ぎ、2代~4台の座主を慈光寺からの弟子たちが務めた
    → 円仁はその後、遣唐使として唐へ。煎茶法を持ち帰り慈光寺茶と河越茶の起源となった
830年 帰国後、円仁が河越に無量寿寺を開山・・・無量寿寺(北院)は再建され今の喜多院になった
1159年 平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆へ配流
1180年 源頼朝が挙兵
1189年 源頼朝が武蔵武士団を取りこみ、畠山重忠を筆頭に奥州征伐へ
     それに先立ち、源頼朝は慈光寺に愛染明王像と願文を送り戦勝祈願
1192年 源頼朝が征夷大将軍になる
     後白河法皇四十九日法要 百僧供養に慈光寺から10人を送る
1193年 後白河法皇千僧供養の宿老僧に、慈光寺座主・厳耀(ごんよう)が選ばれる・・・極めて異例
     その頃、慈光寺内の宿坊は75か所に及ぶなど隆盛を極めた
1197年 栄朝が慈光寺に霊山院を開山・・・元は僧坊の一つだった
1199年 源頼朝が死亡
     栄朝が栄西(臨済宗の始祖)の弟子になる

●この頃までの慈光寺は天台別院として武蔵国はもとより、関東一円に絶大な勢力を誇っていた

●その政治的・経済的基盤には武蔵武士の存在があった。特に秩父党・畠山氏の存在が大きかった

●源頼朝が慈光寺を庇護した3つの理由
①奥州征伐のための武力を得るには畠山氏、武蔵武士の後ろ盾が必要だった
②遠祖・頼義の故事
前9年の役で、頼義が奥州の安倍一族討伐のために戦勝祈願を行い、戦に勝利したことで関東における源氏の地位を確立した
→ 同じ奥州征伐という目的があったため頼義にあやかった
③清和天皇の勅額
清和天皇=清和源氏の祖の勅額を賜った寺である

●頼朝の死をきっかけに、鎌倉幕府の権力が比企氏・畠山氏から、北条氏に移っていった(執権制)

鎌倉時代~室町時代

1203年 比企能員が暗殺される
     2代将軍・源頼家が暗殺される
1205年 北条頼政が執権となる(執権制の始まり)
     畠山重忠が暗殺される
1213年 重慶事件で畠山一族の多くが討ち死
     それ以降、慈光寺別当職は畠山氏から源範頼の子、孫へ移る
1219年 3代将軍・源実朝が暗殺される
     北条政子が尼将軍として鎌倉幕府を統率
1221年 承久の乱 政子&義時により後鳥羽上皇軍を撃退
1226年 4代将軍・源頼経(京都九条家から竹御所の娘婿となる)
     → 九条家との縁により装飾法華経が納められる(現国宝)
1296年 慈光寺の法印が無量寿寺を再興
1333年 鎌倉幕府滅亡

●鎌倉幕府は朝廷と仲が悪かった(朝廷を軽んじた)
 → 北条氏が元寇を撃退しても朝廷からは評価されなかった(評価されたのは明治天皇になってから)

●物部重光親子が慈光寺の梵鐘を手掛けた
 → 梵鐘のプロフェッショナル
   慈光寺の梵鐘が第1弾。その後、鋳造した10数個の梵鐘はすべて国宝に指定
   奈良の大仏も物部重光親子が鋳造したことが判明した

●室町時代には2度の焼き討ちにあい、釈迦堂をはじめとする建物や仏像が焼失し、茶園も失われていった

その後、昭和時代にも放火があり、釈迦堂などは債権されないまま。

蔵王権現の左手のみ、奈良時代のものが現存している(胴体は炭化したもの、他は復元して本堂に)

●足利氏・関東管領 ⇔ 鎌倉公方の敵対関係に。慈光寺は鎌倉公方側についた
 → 跡継ぎ争いのいざこざで、鎌倉公方は勢力を失い、慈光寺は焼き討ちにあった
 → 関東管領における上杉氏同士の戦いの裏で、小田原で起こった後北条氏が勢力を増していった
 → 2度目の焼き討ち(1550年頃)にあって以降、「慈光寺」の名前が文書に見られなくなった
   ⇒ 「敗者」は勝者の歴史には書かれない

江戸時代前後

1591年 徳川家康から寺領100石の朱印状を賜る
1598年 検地帳で22坊の名が残る
1627年 天海が上野東叡山寛永寺を開山し、慈光寺が末寺となる
     → 寛永寺より位を上にするわけにはいかなかった
     → 人の流れを江戸に向けるため
1642年 徳川家光から100石の朱印状を賜る

●慈光寺の徳川家康図はほかのものよりも格式高い
 → 天海の筆による文字が入っているため。社会の教科書で使われていたことも
 → 慈光寺を再興しようという徳川家康の考えによるもの
 ⇒ 家康は清和源氏の末裔を自称していたため?

●その後もたびたびの放火の憂き目にあい、釈迦堂や蔵王堂などが焼失した

●七井、七石、七木、七谷が山内にあった

和紙の歴史

●774年に、「武蔵紙480帳」を正倉院へ寄進した記録があり、その頃には既に和紙ができていた

お茶の歴史

●慈光寺茶、河越茶
・829年~830年、遣唐使にいった円仁が、煎茶法を持ち帰った(慈光寺茶と河越茶の起源)
・830年、無量寿寺に茶園をつくり、河越茶のはじまりとなった

●狭山茶
・狭山丘陵はお金になる商品作物が育たなかった
 → 『喫茶養生記』(栄西)には台地がお茶栽培に向いていることが記されていたが、生産技術がなかった
・吉川温恭(よしずみ)が江戸でお茶の作り方を学び、狭山茶が生まれた

●青梅
・指田半右衛門が門外不出だった宇治の茶の製法を身につけ、青梅での製造に取り入れた
・白痴を装って、掃除の役目をうけもったことで工場に出入りできた

「鎌倉殿の13人」への興味がより深まりました

鎌倉時代だけでなく、その前後も通して見ることで、全体の歴史の流れを俯瞰できたような気がします。

特に「慈光寺」という一貫したテーマで歴史を学べたことが大きいと思います。

日本史を学び直したい気持ちがムクムクと湧いてきました。

子どもと一緒に漫画『日本の歴史』で勉強したいと思います笑

大河ドラマの登場人物の相関関係も、横と縦の関係から学べたのでよりドラマの内容が理解できるようになったのではないかと期待しています。

「鎌倉殿の13人」のこれからの展開がますます楽しみですね!

町田屋さん、ありがとうございました!

(後編に続きます)

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