ときがわ町の老舗旅館「町田屋旅館」さんと慈光寺勉強会

2022年1月27日(木)9時30分~16時で実施した慈光寺に関する勉強会の後編です。

前編はこちら

ときがわ社中では現在、滑川町の大河ドラマをきっかけとするPR事業に関わっていることもあり、源頼朝との関わりが深い慈光寺を一度じっくり学んでみたいと思っていました。
そこでときがわ社中とチーム企メンバーに声をかけ、勉強会を企画することにしました。

今回参加したメンバーは、ときがわ社中・チーム企の栗原さん、チーム企の小林さん、なっちゃん、みっちゃん、オクムサデザインの浅見さん、ときがわ町観光協会の岡野さん、風間の7人。

午後はいよいよ慈光寺を巡り歩き

午前中の座学で消耗したエネルギーを高柳屋さんのうどんで補給した後、午後はいよいよ慈光寺に向かいます。

午後の山歩きに備えて「大盛」で!

板碑群のある場所より少し手前にある駐車場に車を停め、徒歩で「山中」に入っていきます。

文字どおり「山中」で、既にここはお寺の敷地内ではあるのですが、山登りの様相を呈しています笑
参道、かつ山道という感じでした。

山道を歩きながら町田さんが解説してくれます。

「ここは宿坊があったところですね。平らになっているところは全部宿坊跡です」

えっ、どこ?

杉などの木が大きく育っているので、傍目にははっきりしませんでしたが、道を進むにつれてなんとなく分かるようになってきました。

大きさとしては多くは100坪くらい、大きな宿坊になると200坪というものもあったそうです。
2回の焼き討ちで釈迦堂などとともにすべて焼き払われてしまったそうです。

途中で大きな山茶花の木のある開けた場所に立ち寄りました。

山茶花100選にもなっている木だそうなのですが、言われないとなかなか気づかないような場所にあります。
囲いはあっても特に解説板のようなものもなく、少し寂しい気がしました。

「なんとかした方がいいんじゃないかと教育委員会にも伝えているんですが・・・」

と町田さんは悔しそうでした。

同じ場所に頭のないお地蔵様と思われる石仏がありました。
今までもこのような石仏を見たことはありますが、特になんとも思わず、ただなにかの拍子の破損したものと思いこんでいました。

右から2番目が頭のないお地蔵様

でも実は廃仏毀釈が行なわれた際に頭を打ち砕かれたのだといいます。
そうか!
確かにそうなのでしょう。
今まで疑問に思うこともなく、ただ壊れたものと思いこんでいたので大いに反省です。
曲がりなりにも民俗学を学んだ者として恥ずかしい・・・。

今度はいったん舗装された道路に戻り、板碑が集められている場所に出ました。

これだけ大きな板碑が集まっていると壮観ですね!

もともとここに板碑や石塔類が集まっていたというわけではなく、ボランティアの方々が山中に散り散りになっていたままにするのを忍びなく思い、それらを背負ってここまで担いできたんだそうです。

まだ多くの板碑や石塔や石仏などがひっそりと山中に残されており、なんとかしたいと思っているとのことでした。

2度の焼き討ちと再建を繰り返し、3度目は昭和期に放火にあって焼失したままになっている釈迦堂跡地に出ました。
写真を見せていただきましたが、屋根が茅葺きで一部の茅を葺き替えたばかりだったために燃え広がるのが速すぎたといいます。

その隣にはかつて蔵王堂があって、こちらも焼失してしまったのですが、そこにあった蔵王権現の立像は奇跡的に全焼せず胴体は炭化した状態で本堂に安置されているそうです。
さらに左手だけは当時修復のために別の場所にあったということで焼き討ちを免れ、元の状態のまま保存されているのだとか。
「本当に奇跡的なこと」と町田さんは何度も口にされていました。

そして梵鐘。
これが当時の超名工・物部重光親子が鋳造したものですね。
良し悪しを判断できるほどの目は持ち合わせていませんが、なんとなく話に聞く名工が作ったものにしては扱いがそっけない気がします。
特に名工が手掛けた処女作なのであれば、もう少し何かそれを知る術が欲しいところです。

長い山道もようやく終わりが近づいて、いよいよ本堂にやってきました。

こちらの山門に書かれている青い文字が私はすごく好きです。
字の良し悪しはもちろん分かりませんが、単純にかっこいい!
特に最後の「慈光」の二文字には毎回見とれてしまいますね。

町田さんの声掛けで住職が出てきてくださって、本堂を案内していただけました。

蔵王権現の立像も確かにありました!
胴体は黒く焼け焦げ炭のようになっていますが、確かに左手だけは木のままの状態を保っていました。

その後は宝物殿へ。
こちらでは源頼朝が戦勝祈願をした際の願文や愛染明王像、それに国宝にも登録されているお経などを見学することができます。

宝物殿を出るとまた少し登って観音堂へ。

これはおもしろい!
お堂の屋根下の空間に白い馬のつくりものが納められています。

「夜荒らしの名馬」というのだそうです。
額の上に乗っているというのが斬新ですね笑

なぜ馬なのかまだ分かっていないといいます。
なんでなんだろう。
いろいろ考えてみたくなりますね。
慈光寺ミステリーでした。

慈光寺の見学が終わると次は15分ほど歩き、慈光寺から独立した霊山院(りょうぜんいん)へ向かいます。

元は宿坊の一つでしたが、栄朝のときに開山し、臨済宗の始祖である栄西に栄朝が弟子入りして禅宗のお寺となりました。

慈光寺が檀家を持たないお寺(古代寺院というそうです)であるのに対して、霊山院は檀家を持つ近代寺院であるという違いがあります。

おもしろいのは霊山院にある勅使門。

勅使、つまり天皇が参詣に来たとき、または天皇のお使いが来た時のみ開門する門だそうで、1回しか開いたことがないといいます。
なんと贅沢な。
それほど格式高い場所ということなんでしょう。

一般の?方が出入りする山門に掲げてあった言葉。なかなか気になる・・・

霊山院には坐禅堂があり、企業研修などの受け入れもかつてはやっていた時期もあるということでした。

全体的にすごくきれい!

全体の振り返り

今回の勉強会で得た学びをざっくり振り返ってみます。

  • 遣唐使から帰った円仁によって、慈光寺茶、河越茶が生まれた
  • 慈光寺は比叡山延暦寺に並ぶ天台宗の一大拠点で、鎌倉幕府が開かれた前後が最も栄えた
  • 慈光寺の勢力基盤は畠山氏によるものが大きかった
  • 源頼朝の死後、権力争いに巻き込まれ、度重なる焼き討ちにあって勢力を削がれていった
  • 徳川家康も慈光寺を再興しようというそぶりがあった
  • 慈光寺のお経は埼玉県初の国宝となった

慈光寺がたどってきたヒストリーはそのまま地域のストーリーになるのではないかと感じました。

お茶の起源にしても、関東一円から僧が集まって宿坊をつくり学んでいたことにしても、慈光寺が埼玉県西部地域の歴史、文化、産業に密接に関わっていたことは確かなようです。

このストーリーはこの地域の産業をPRしていく上では非常に大きな武器になるのではないかと感じました。

また、町田さんは奇遇にも翌日に定年退職を控えているということで、定年後にやりたいと思っていることをお聞きしました。
その計画は非常にワクワクするものでしたので、これを機にまたときがわ町でいろんなことを仕掛けていきたいと思っています。

町田さん、貴重な体験と学びをありがとうございました!
1日お付き合いいただいた皆さま、ありがとうございました!

おまけ

ときがわ町からの帰りにお土産を買おうと、「とうふ工房わたなべ」さんへ。

ときがわ町のお土産といったらやっぱりこちらでしょう!

定番のおからドーナツと個人的に一番好きな温泉湯豆腐を買いました!

夕食までときがわ色を楽しみました笑

(完)

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