『里山資本主義』の今

2013年、藻谷浩介さんとNHK広島取材班の共著で、発売後3か月で16万部を超えたベストセラー『里山資本主義』。
増田寛也さんによる『地方消滅』が話題になったり、国策としての「地方創生」が打ち出され始めたのも、ちょうど同じような時期からです。
「地方」への注目が高まり始めた時期といっていいかと思います。

本書が取り上げるのは、里山資本主義の今。
元気な地域ではどんな取り組みが行われているのか、どのような広がりが生まれているのか、そして、地域が元気になるためには何が必要なのか、各地域での実践例からヒントを見出し、これからの「里山資本主義」の可能性を探っています。

私が本書を読んで印象に残ったのは、次の2点です。

まず1点目は、「お金を稼ぐ場」と「お金を使う場」について。

外に出て行くお金を少しでも内部に留め、地域内での経済循環を拡大させることが、雇用を生んで人口を支えます。そういう意識のない、稼ぐ場があっても使う場の乏しい地域は、どうしても衰退を免れません。いわば地域全体が工場のようなものになってしまって、生活の場にならなくなっていくのです。

これはつまり「仕事がある」というのは、お金を使う場があるということでもあるということです。
そうしないと、単なる「出稼ぎの場」になってしまうということ。

「お金を稼ぐ場」と「お金を使う場」の両方が必要という視点はこれまでありませんでした。
働く場所があれば、その周りに飲食店などのお店ができるだろうと漫然と考えていましたが、「お金を使う場」としてしっかり意識する必要があるということに、夕張市のクラスター化失敗の事例から気づかされました。

次に、二点目は市民と行政との関係について。

シビックプライドの醸成において肝心なのは、市民が大切にしている資源に行政も寄り添い、市民とともにその資源を市内外に発信して資源の価値を高めることです。それとともに市民の当事者意識もより高まっていくのです。そのためには市民と行政、また市民同士が直接つながり、地元の資源に対する思いや意見を交換する場や機会が必要となります。

これは、当たり前のことですが、行政、つまり公務員も「当事者」でなければならないということです。
私が公務員時代に、やたらと「市民協働」とか「自治基本条例」を強調して、会議の場などに集まってくる市民の方に考えてもらったり、話し合ってもらったりするということが行われていました。
もちろん市民の意見を尊重することは重要です。
でも、だからといって、市民に議論を丸投げして、公務員がそれをただ受け取ったり、それに対する「お役所の意見」を述べたりするのはおかしいのではないかと思うのです。

必要なのは、あくまで行政も市民もフラットな立場でお互いが一緒になって議論に参加することであって、市民に委ねるということではないのではないか。

もっといえば、自治基本条例上は地域の在勤者も「市民」と位置づけられますので、地域に住んでいようと住んでいまいと、その地域の行政の職員は「市民」であり、当事者にほかなりません。

本当に「行政と市民の協働」を成り立たせていくためには信頼関係がなければなりません。
何かを決めるときだけ会議の場に集まり、話すだけでは当然ながら信頼関係が築かれるはずもなく、多くは「市民の意見」対「行政の意見」の対立になるのがオチです。

そうではなく、平時からコミュニケーションをとれる機会を設けることが必要なのではないかと私は思います。
話し合ううちに、人柄が理解できたり、お互いの考えがわかってきたりします。
時にはぶつかり合うこともあるかもしれませんが、本音で本気でぶつかり合ったり議論したりして、信頼関係も築かれていくのだと思います。
そのためには、公務員は市役所や役場という建物の中に閉じこもって仕事をするのではなく、自ら地域の中に入っていく、市民が来るのを待つのではなく自分から会いに行くという仕事を自らつくっていくことが必要ではないかと思いました。

それは別に予算がなくてもできることです。
実は公務員の仕事は、予算があるものよりも、予算のないものの方が重要で、なおかつ自由で楽しい仕事にできる!というのが私の持論です。

公務員にはまだまだできることがたくさんある。
そんな公務員の「しごと」をつくるお手伝いをすることも、私の役割だと思うのでした。

本書のまとメモ

(↓ まとメモはこちらから)

「⇒」は個人の意見

「里山資本主義」が目指す世界

・「里山資本主義」とは、農山漁村に限らず都会でもどこでも実現できる、”里山”的な資本主義のこと
 =「多様なものが共生し、循環再生が健全になされているような社会」を支える経済思想
 =「ヒト・モノ・カネ・情報が、使い潰されず、淀まずに、循環し再生され、次世代に続いていく社会」を目指す主義

・里山資本主義ではお金は、自給や物々交換と同様に必要に応じて使う手段の1つであって、評価指標ではない

・日本にはエネルギー以外にも、そもそも「ヒトが再生されていない」という大問題があることに気づく
 → 東京は実は、国内で最も「ヒトの循環再生」が壊れてしまっている場所である
 = 東京に若者が集中することで次世代が減り、経済が縮小し、さらに次世代もが減るという負の循環

・新規上京者や、首都圏にこだわり続ける首都圏在住者が共通して口にするのが、「いい教育を受けるには首都圏しかない」という思い込み
 → 「いい教育って何ですか?」

・里山資本主義では、お金だけでなく家庭生活や他人とのつながりを重視する人間に育てること、試験に勝つことや上司の言うことを聴くことよりも、対等に周囲と協働できる力を身に付けさせることが、より重要な教育となる

⇒ 地方圏の方が学校と地域社会の距離が違うので、本来、社会教育には有利。少人数クラスであることも、都市圏の学校に比べて、個別最適化を目指すうえでは実は有利な要素

・農山漁村の住民自身も、現にじゅうぶんに食べているのに、死ぬまで役目のある充実した日々を送っているのに、「自分は『いい学校』を出て『いい会社』に入って偉くなれなかった負け組だ」と思いこんでいる

・大都会は日常的な些細なことでもお金を出して他の人に頼む、分業するシステムで成り立っている。しかし、地方には、一人で二役三役は当たり前、何役もやらなければ生活が回っていかない世界がある
 → そういう世界でこそ、生きていくのための基本性能を持った人間、どんな時代になっても生き残れる人間が育つ

周防大島が”里山資本主義のふるさと”と呼ばれる理由

・イノベーションのような動きがあり、それをフォローするアーリーアダプターのような動きが地域にあるのか、ないのか。もしくは自分はイノベーターのような活動がしたいのか、イノベーターをフォローするようなアーリーアダプターとして活動したいのか、そういった自分の資質と地域の状況と求められている役割を勘案しながら、どういった地域でどのようなかかわり方ができるのか、したいのかを考えていくことも重要

・第一次産業には未来がないという価値観で、子どもを都市の企業へ就職させてきた「長老世代」。その価値観によって都会へ出た「現役世代」。この価値観に縛られてきた両者にとって、それをめぐって直接的に意見をやり取りすると、うまくいかないこともある
 → 「長老」と「孫」の関係になると、価値観で対峙するより、「孫」の話を聞く「長老」といった関係性も出てくる
 → 「孫」的な存在が、これまでの価値観へ疑問を持ち、現状の課題への解決策を提示することで、ワンクッションおいて、「長老世代」も考えることができる
 → その結果、これまで強固だった価値観が崩れ、より多様な関係性が生まれ始める

・周防大島の「現役世代」は、「次世代」の教育にも熱心。「次世代」に島のよさ、魅力を知ってもらい、進学や就職のために一度は都会へ出ていくことがあっても、外で得た知識や人間関係などのつながりを大事にした上で周防大島へ戻ってきてほしいと考えている
 → それこそが地域活性化の最終的な成功への道筋

・地域活性化とは、その地域を今後の世代に残し、循環していくサイクルをつくること
 = 人がいて、あるいは外へ出て行った人が帰ってきて、仕事があり、仕事がなければ作れる社会を準備し、経済が循環していくような地域にする必要がある

・イノベーションには「若者、バカ者、よそ者」が役割を果たすといったとらえ方があるが、あまりに遠い関係の人が突然自分たちの地域に入ってきて何か新しいことをしようとしても壁が高過ぎる場合もある。それが血縁や地縁がある人のパートナーという存在は程よい距離感を生むケースもある

・現状の変化を質的に向上させ、それを持続可能なものにするためには教育が必要。「次世代」へ、さらなる地域再生を託すには、教育によって「長老世代」と「現役世代」の思いや思想、技術を伝え、つないでいく方法でしか果たせない

・教育によって地域に根づく暮らしを自分たちで考える能力を身につける。また同時に重要なのは、新しい知識や技術を得るために都市部へ学校や就職などのために子どもたちが一度出たとしてもそこで得た知識や技術を改めて島で活かすために戻ってきてもらえるような地域づくり

・地域でどのような情報発信がされているかが、地域の状況を知るポイントの1つになる
 → 情報発信しないところには情報は入ってこない。そういうところは閉鎖的な地域である可能性が高い
 → 情報発信できる人材がいない。もしくは人材が入っていかないような環境ととらえることも可能
 → ニーズに合った情報があるかも重要なチェックポイント

 ⇒ ただ発信していればいいわけではない。情報発信の有無、発信している情報によって、「このような見方をされる」ということを意識しなければいけない

・「町づくりをしたい」という認識より、まずは自分が地域の中できちんと生業を持つことの方が重要

人と地域と事業をつなぐ「プラットフォーム」

・里山資本主義的な暮らしを後押しして、加速・増幅させる機能を持っている組織や企業が、人や事業どうしを結びつける場や環境をつくっている。それが「里山資本主義」におけるプラットフォームのイメージ

・プラットフォームとは、人やモノ、情報やお金を結びつける触媒のようなもの

・ソーシャル・キャピタルとは、社会や地域での人間同士の信頼関係や結びつきのことで、この社会関係資本が大きな社会ほど、互いへの信頼が強いため、協力が得やすく、さまざまなことが円滑に進む

・事業を起こそうとしている人がなぜその活動をしているのか。そのためにどうして手伝ってくださる方々の力が必要なのか。どのような助けを必要としているのか。このような訴えをきちんと伝えられるかどうかが、人を集められるかどうかの分かれ目になる

・里山資本主義的な経済活動や生活をはじめ、多様なかかわり方が生まれることでより社会課題克服へとつながる
 → 社会課題解決の仕事は社会貢献であってお金にはならないというパラダイムから、社会の課題解決に取り組むことこそがお金を生むというパラダイムへと変わる

「ふるさと創生」から「地方創生」へ

・「地方創生」とは、中央・東京からの言葉である。自分の町のために何かしたいと思っている人は「地方創生」という言葉ではなく、「地元創生」という言葉を使う方がしっくりくる(村岡浩司氏)
 → 「地方」を創生するという考え方自体が、人口減少などの地域課題を「自分ごと化」することを妨げる事態へとつながっている

・(広島県尾道市)しまなみサイクルオアシス事業やしまなみ島走レスキューは、すべて民間の事業者が協力社として名乗りを上げたところへ、必要な資材などを市が提供し、調整役としてサポートに徹している
 → 行政が介在することで。住民の生活と観光産業が一体化する
 → 相利共生の関係をつなぎ、それが1つのエコシステムとして持続していくよう、市が潤滑剤の役割を果たし続けたことが成功の要因

 ⇒ 行政が必ずしも実施主体である必要はない

・「シビックプライド」とは、単に地域に対する愛情を示すだけでなく、自分自身がかかわって地域をよくしていこうとする、市民の当事者意識に基づく自負心をも意味している

・シビックプライドの醸成において肝心なのは、市民が大切にしている資源に行政も寄り添い、市民とともにその資源を市内外に発信して資源の価値を高めること。それとともに市民の当事者意識もより高まっていく
 → そのためには市民と行政、また市民同士が直接つながり、地元の資源に対する思いや意見を交換する場や機会が必要となる

・地方創生の取り組みのキーワードは、「危機感」「自分ごと化」「官民連携」
 → 危機感がなく、どこか他人事で、行政に依存していると、すぐに地方はダメになる

里山資本主義の新たな可能性

・2007年から2017年の10年間に、10兆円規模の産業で、売上が12%伸びたのが農業
 → 農業所得は25%アップ

・夕張はメロン産業のクラスター化に失敗した。メロンに関連した周辺産業を市内に集積させてこなかった
 → 関連産業を持たず、青果や果汁を売っているだけなので、ごく限られた生産者にお金が入るだけで、市内の就業機会は増えない
 → メロン農家や市役所職員など、安定収入を得ている層が、相当程度市外に住んでいるため、消費は市内で行われず、それに対応した小さな商売も成立しない
 → 単なる出稼ぎの場所

・外に出て行くお金を少しでも内部に留め、地域内での経済循環を拡大させることが、雇用を生んで人口を支える
 → 稼ぐ場があっても使う場に乏しい地域は、地域全体が工場のようなものになってしまって、生活の場にならない

・中央から買わずに地域内での調達を増やそうとすると、規模の利益が縮小する分だけ個々の事業者のコストはアップするが、地域全体を1つの事業体として見るならば、その中でまわるお金が増え外に出て行くお金が減ってコストダウンになる

・元々持っている気候風土、特色であり文化や強みを時間軸で広げて見てみると、使えるものが地域ごとにあるはず。そしてその中で何は残して何は使わないかを決めていかなくてはならない

・都会の中にも本当は里山を作らなければいけないし、里山資本主義的なコミュニティを地方や都会といった区分ではなく、世の中にどれだけたくさんつくれるか

・日本の学校教育は全国一元で、里山資源の活用というようなことはまったくカリキュラムに入っていない。そういう教育でいい点を取った人が東京に集まる。点を取れなかった人も、やっぱり東京に流れ着く