先日、私はこのようなツイートをしました。

一夜明けてもまだ頭の中に”中庸”という言葉がこびりついていました。
自分にとって大きなヒントになるかもしれないという予感。

そのため、今回はこの”中庸”について書いてみたいと思います。

哲学カフェで出会った”中庸”という言葉

2021年7月18日(日)に参加した本屋ときがわ町の午後の「哲学カフェ」で、ある言葉との出会いがありました。
それが”中庸(ちゅうよう)”という言葉でした。

哲学カフェの主催者である遠山さんは、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』という書物からの引用として、”中庸”を次のように説明していました。
(私の解釈なので、遠山さんの意図とは違う箇所もあるかもしれないことを付け加えさせていただきます)

  • マイナスが傾き過ぎると、「不足」や「臆病」となり良くない
  • プラスに傾きすぎても、「過剰」や「無謀」となりこれも良くない
  • 「悪」とは性質が極端な状態であることをいう
  • 反対に「勇敢」であるとは、臆病と無謀の中間である
  • 中間であることが「善」であり、これが「中庸」である
  • つまり、「中庸」であるとは「善」ということである

”中庸”という言葉に私は強く惹き付けられました。

実はこれほど”中庸”が気になったのには理由があります。

哲学カフェに参加する前日、入浴中に一人で自分の性格について考えているときに、この「中庸」というキーワードに思い至っていたのです。

何事に対しても飛びぬけたものがなく、悪く言えば「中途半端」な自分。
どうしてもバランスをとろうとしてしまう自分。
そんな自分に劣等感を抱くこともしばしばでした。

そんなことをグルグルと考えているうちに、逆にいうと、何事にも飛びぬけたものがないからこそ、いろんな視点を使いながら多角的に考えられるというのは自分の強みでもあるのではないかと気づいたのです。
実際にこれまでいろんな人に言われたことがありますし、自分でもそうありたいと思ってきたことも事実です。

中庸な存在、いわばゼネラリスト

であれば、いっそのことそういう存在として認知されればいいのではないか。
そう思ったときに頭に浮かんできたのが、”中庸”という言葉でした。

なんとなくこの言葉が気になって、週が明けたら調べてみようと思っているうちに、次の日曜日に”中庸”という言葉に相見えることになったのです。

普段の生活の中ではまず聞かないであろう”中庸”というワードに、2日連続で出会ったということに、何かの縁を感じずにはいられませんでした。

”中庸”とは何か

まず”中庸”とは何かを今一度調べてみました。
確か中国の古典にもそんな名前のものがあったような・・・。

とりあえずググってみました。
その中で、一番まとまっていると思ったコトバンクから引用してみます。

(1)【名】
①どちらにも偏らないで常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。中正。中道。②
②ふつうであること。尋常であること。また、そのさまや人。
③アリストテレスの徳論の中心概念。理性によって欲望と行動を統制し、過大と過小との両極端の正しい中間に身をおくこと。・・・(以下略)
(2)中国の経書。四書の一つ。・・・(以下略)

なるほど。

②は気に入りませんが(笑)、①はアリストテレスが考える”中庸”と同じような内容といっていいでしょう。
ここでは①をとることにしたいと思います。(前向きな人)

”中庸”、つまりものごとの中間であるということは、どこにも偏らずにバランスをとれる存在であるということ。
これは大げさにいえば、私の生き方そのものといえるのかもしれないと思うのでした。

アリストテレスが考えた「善」とは?「中庸」とは?

アリストテレスが考えた”中庸”は、「中庸とは何か」ではなく、「善とは何か」を考えたところから思い至ったものでした。
その点について、遠山さんのお話から少し補足しておきたいと思います。
(こちらも解釈は私個人のものです)

・アリストテレスは、善・悪を「その人」についてではなく、その前にその人のなす「行為」によるものと考えた
・「人格」は、己の判断した行為の積み重ねの結果によって決まる
・判断する主体は、当時でいえば「社会(ポリス社会)」であった
・その判断基準として、「悪」とは極端に走ることであり、”中庸”はどの極端にも偏らない中間として「善」とされた
・極端の間の「中間」とは、真ん中を意味するのではなく、両極端の間にあるどこかの「中間にある点」のこと
・その「中間」もその時、その状況によって変わる

奇しくも古代ギリシアの有名な哲学者アリストテレスが”中庸”を最善のものとして考えていたということも、ミーハーな面もある私としては大いに励まされるところですね笑

おもしろいと思ったのは、”中庸”が「善」というためには、「善」という判断をする主体が必ず必要であるということです。

アリストテレスが生きた時代は、その判断はポリス社会に重きが置かれていたようです。

”中庸”という生き方

先ほど、あることについて「善」というには、「善」と判断をする主体が必要であるということを述べました。
この点について最後に深掘りしておこうと思います。

現代日本においては、哲学カフェ参加者もいっていましたが、個人が自分の考えを発信しやすくなった、また、個人としての考えを持つことが求められる社会になったと言えるかと思います。

そうしたときに、自分で「善」と判t断してもらう相手を選択するという考えもあっていいのではないか。
これはビジネスに置き換えるとすごく理解しやすい。

  • 付き合いたいお客様を自分で選ぶ
  • そのお客様にとって価値のあること(=善)を見出し、提供する
  • そのお客様にとって、自分が価値のある(=善)の存在として認められるようになる

ということです。

人によって求めていることは当然違いますので、その”中庸”の点をどのように捉えるか、そこに自らを位置付けるか。
その視点はビジネスに活かせるのではないかと思いました。

特に多くのお客様を相手にできない、地域でのミニ起業家にとっては、限られたお客様への価値提供は最重要ポイントになります。

誰にとっての「善」、誰にとっての「中庸」かという視点は忘れずに持ち続けたいと思います。

===

哲学カフェ終了後に、『ニコマコス倫理学』のアリストテレスの記述から、遠山さんがこんな言葉を教えてくれました。

中庸は、悪と悪の中間ということにおいて、最善のものを指します。
でも重要なのは、最善ということにおいては、中庸は善の極端にあるということになるんです。

この言葉には非常に勇気づけられました。
(遠山さん、ステキな言葉をありがとうございます!)

これは”中庸”であることは強みになりうるということを意味します。

どこかに偏っていないことを「中途半端」ではなく、”中庸”なものとして強みにできるかどうか。(決して凡庸ではなく!)

私が今後ビジネスを継続する上で、大事な姿勢になりそうです。

今後はぜひこの”中庸”を意識して、生活や事業の中にも取り入れていきたいと思います。