教育哲学者・苫野一徳さんによる講話

2021年7月20日(火)、超教育協会主催のオンラインシンポジウム「『そもそも教育は何のため?』から考える『公教育の構造転換』」を受講しました。

登壇したのは教育哲学者である苫野一徳さん。

先日読んだ苫野さんの著書『教育の力』には非常に考えさせられることが多かったので、お話をうかがうのを楽しみにしていました。

※『教育の力』の読書メモはこちらから。

オンラインシンポジウムの中で印象に残ったのは、

①公教育の目的は、「自由の相互承認」の感度を育むとともに、「自由」に生きるための力を育むため
②これからの公教育に必要なことは、教育の「個別化」「協同化」「プロジェクト化」

ということでした。

以下、この2点を中心に、オンラインシンポジウムの内容のまとめを振り返ります。

苫野一徳さんによる講話メモ

公教育の目的とは

・公教育は、市民社会(民主主義)の最大の土台である

・戦争は激減している
 → 実は人類の歴史とは暴力の歴史であった
   人種、民族が違えば、人を殺しても当たり前だと思われていた時代や人を殺すことが「娯楽」という時代すらあった

・背景は「民主主義」の登場
 → 暴力が続くと、それがどうしたらなくなるのかという考えが出てきた
   ヨーロッパは暴力が公然と行われてきた長い歴史

・現代では、それは「おぞましい」という感度を誰もがもっている
 → 人類の歴史において革命的なこと

・暴力をなくすためには、人間は誰もが対等な存在であると認めるしかないということを発見した
 → 市民社会の根本原理は「自由の相互承認」である(ヘーゲル)

・まずはお互いを対等に「自由」な存在として認めあうことを社会でルール(憲法)化する
 → すべての人が「自由」に生きるためには力が必要
 → 一人一人の心に「自由の相互承認」の感度が必要(=公教育の本質)

・教育・教師は何のために存在しているのか?
 → すべての子どもに、「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、「自由」に生きるための力を育むため

学校現場に起こっているさまざまな問題

・不登校、いじめ、落ちこぼれ、同調圧力など
 → 「自由の相互承認」を育てる学校という場が、さまざまな問題の温床となっている

・原因は150年間変わらない学校システム
 = みんな同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの答えを勉強するベルトコンベアー型のシステム

・変わらないのは、何かしらの「成功」体験への執着か?

・学校はイングランドで150年前に発明された仕組み
 → 子どもが平等な学ぶ機会を与えられない当時としては、誰もが同じ教育を受けられる学校という仕組みは発明だった

・150年間、学校の仕組みはあまりにも変わっていない

・実際の社会から見た学校の不自然さ
 → 実際の社会では多様なライフスタイル、価値観を持った多様な人が、一緒に生活している
 → 同じ地域、同じ年齢の子どもが同じ場所に集まり、同じやり方、同じペース、同じ内容を一斉に学ぶということ自体が「異常」

・学校は同質性が高すぎる

学びの構造転換と公教育の構造転換のために

・学びの構造展開と公教育の構造展開に向けた2つの提案
 ①学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」
 ②多様性がもっとごちゃまぜのラーニングセンター

●学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」

【個別化】

・学びの「個別化」と「協同化」の融合が必要

・自分のペースで、自分に合った学び方や場所で、必要に応じて必要な人の力を借りながら、人に手を貸しながら学べる環境が必要

・『教育の効果』で示された3つのエビデンス
 ①一律一斉授業ではせいぜい半分程度の時間しか学んでいない
 ②個々のペース、レベルに応じた学びが進められ、教師や仲間の的確なフィードバックがあればより短い時間で学力が向上する
 ③小学生は、一律一斉の宿題は学力との相関関係がほぼゼロ

・人それぞれ、学びのペース、興味関心、合った学び方、合った教材、心地の良い学習空間などは異なる
 → これらを「個別化」

【協同化】

・個別化が孤立化になってはならない

・ゆるやかな協同性に支えられた個の学びを実現する

・必要に応じて、人に力を借りられる、人に力を貸せる環境 = 安心できる環境

【プロジェクト化】

・探究をカリキュラムの中核に
 → 自分たちなりの問いをたて、自分たちなりのやり方で、自分たちなりの答えにたどり着く探求型の学び

・答えを持っている教師から、「共同探究者」「探究支援者」としての教師の役割

・なぜ探究か
 → 学びの意義の実感
 → VUCAの時代 出来合いのテストで順列をつけることに意味がなくなった

・自分たちの学校は自分たちでつくる(市民社会の土台)
 → 社会は誰かに与えられるものではない。自分たちでつくるもの
 → 学校も同じ

・自分たちの社会は自分たちでつくるという市民を育てるためには、自分たちの学校は自分たちでつくる学校を当たり前にしていかなければならない

●多様性がもっとごちゃまぜのラーニングセンター

・学校は人為的につくられた同質性の非常に高い場所(地域、年齢、男女、能力差・・・)

・違う人間同士が自由の相互承認をする力を育む場であるはずなのに、そもそも学校では多様性が出会うことができない 
 → 多様な人同士が理解し、承認し合うようにはならない

・これからの学校は今の学校とはまったく違った形になっていくのではないか
 → 異文化、異年齢、異民族がごちゃまぜ、一緒に学ぶ場所

・現にいろんな実践例がある

・複式学級 異なる年齢の子が一緒に学んでいる

・小中学校を統廃合するのであればラーニングセンターにしてしまえばいい

・子どもだけが閉じ込められて学ばされる場所ではなく、いろんな人が一緒に学べる場に作り替えていくことができるのでは
 → 多様性が混在する学びの場

・学校は子どもたちを一つのところに閉じ込めていた
 → 昔はそれによって教育の均等を与えようとした(教育の場がそもそもなかったから)
 → 今はまったく違うアプローチが必要で、人為的、意識的に、多様性がごちゃまぜになる場所を作る必要がある

そのために何が必要か

・多くの人がそのような学びの在り方があることを知らない
 → まずはありうるということを知ることが大事

・20%くらいの人が動くと社会が変わっていく。そういう人をどうやって増やすか

・文科省などの完了にできることは形式的なことに限られている

・先生も生徒も対等に、働きやすい、学びやすい学校を対話を通してつくっていく

・多様な文化を学校にインストールしていくこと。最後はそこしかない

・個別最適化などは既に国レベルでも共有されている
 → ただし、文科省マターなのか、教育委員会マターなのか、学校マターなのかが不明確

・本当は学校でやれることがいくらでもあるので、国は大きなビジョンを示して、管理・監督に重きを置く必要はない
 → 現場の支援体制をいかに充実させていくかが重要
 → オランダでは教員1人に13万円くらい研究費が出る。それくらいのサポート体制が必要

どこまで「自由」に任せるか

・ただ自由にやらせておけばいいわけではない
 → 侵害されてはいけないものがある

・「自由の相互承認」を侵害する行為は許されないと毅然とした態度で臨むこと

・何のための教育かを土台としてブラさず持ち続けることが重要

・自由を奪われると、他人の自由を奪いたくなる。「自分だけよければいい」
 → 不自由な、拘束された学校

・個人を尊重し、自由が承認されていることを、個人が自覚し、お互いで共有されていること

教育の再ネットワーク化

・学校だけで学びを抱え込む時代ではない
 → いろんな学びの場があるので、それを利用しない手はない

・お金のある子だけがそういうものにアクセスできるではダメ

・すべての子どもが機会の均等が得られるようにネットワークを結びなおすことが公教育の大きな課題

地域での教育について思ったこと

上記の内容をまとめながら、ときがわ町でのICT支援員としての経験や、筑波大学附属坂戸高校で生徒さんと話した経験などから、私なりに今後の教育について考えたことを書きだしてみました。

学びの「個別化」の可能性(ときがわ町のタブレット活用の事例から)

ときがわ町のある小学校の授業にICT支援員として入ったとき、こんなことがありました。

担任の先生が、1人に1台貸与されたタブレットを使って、YouTubeの動画を見ながら、プリントをやるようにと指示を出したのです。

すると、子どもたちは配信されたYouTubeのリンクから動画にアクセスし、プリントに記入し始めました。
これを見て、今までのやり方との違いに気づきました。

これまでだったら大型とはいえ教室に1台しかないテレビで、みんなで同じものを同じスピードで1回だけ見て、プリントをやるという方法しかなかったでしょう。

それが1人1台の端末を使うことで、同じ動画ではあるものの、各々のペースで動画を見て、時には見逃してしまったところをもう一度再生したり、停止したりしながら課題に取り組んでいたのです。

その様子を目の当たりにして、「ああ、これが個別化なんだ!」と腹落ちしたのでした。
確かにこのやり方なら、一人一人が理解し、納得しながら先に進めるようになるのではないかという可能性を感じました。

また、別の小学校ではこんなこともありました。

担任の先生が、「タブレットを使うから、みんな廊下の方に机を向けて」と言ったのです。
従来の講義型の配置だと、先生の位置から生徒のタブレットの画面が見づらいからというのが理由でした。

これを見て、1(先生)対多数(生徒)という先生と生徒の関係性が変わるかもしれないと感じました。
これまでは教える先生と教わる生徒という1つの関係しかないように思われていましたが、タブレットという学びのツールを手にしたことで、生徒が「自分で学ぶ」という選択肢が開かれたのではないかと。

先生もタブレット活用に関しては生徒と立ち位置はそんなに変わりません。
学校での学びにタブレットが使われることを通じて、先生と生徒との関係も変わっていくのではないかということを感じています。

学びの「協同化」の可能性(筑波大学附属坂戸高校の卒業研究の事例から)

一方で、タブレットの活用で「個別化」が進んでいく中でも、置き去りになる子が出てきてしまうおそれもあるのではないかということに気づきました。

小学校でのプログラミングの授業で、生徒がタブレットでプログラミングの問題に個人で取り組んでいたときのことです。
やり方がわからないときにすぐに手を挙げたり、「教えて」と声を上げたりする子もいるのですが、なかなかそれができない様子の子もいたのです。

「できた」「できない」という声も出さず、手もあまり動いていない様子だったので、こちらから声をかけると「わからない」と答えてくれ、一緒にやっていくとできるようになったのですが、自分からは声が上げられなかったようでした。

そんな出来事があって、学びが「個別化」したとしても、置き去りになる子を100%救うことはできないのかもしれないと思いました。
じゃあどうしたらいいのか?

もしかしたら、他者との「共有」が必要なのではないかと漠然と仮説を立てました。
その考えに自信を深めたのは、筑波大学附属坂戸高校で、卒業研究でプログラミング教育をテーマにしている生徒さんと話をしたときです。

彼らは、学校のプログラミング教育で成果をあげるには、「共有」の仕組みが必要なのではないかという仮説を持っていました。
これは私が思っていたこととほぼ同じでした。

ここでいう「共有」とは、苫野さんのいう「協同化」と同じ意味といっていいかと思います。
「個別化」が「孤立化」になってはならない。
個別の学びで得たものを他者と「共有」(=協同化)することで、視野の多様性を獲得できる。
つまり正解は一つではなくて、たくさんあっていいということを理解する、実感するということができるのではないかと仮説をより深めることができたのでした。

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以上のように、学びの「個別化」と「協同化」について、自分の経験から実感できたことはすごく大きいと思っています。
これがあったおかげで、苫野さんが話されていたことを理解することができたのではないかと思います。

ちなみに、残る「プロジェクト化」については直接体感してはいませんが、筑波大学附属坂戸高校の先生方のお話を聞いて、同校でのプロジェクト型の学習に非常に興味を持っているところです。

同校の生徒さんは、2年生のときはグループで、3年生では個人で、まさに「プロジェクト」的な学習を行っています。

先の「協同化」のときに登場した生徒さんのように、深みのある視点を持ったり、議論ができたりするのは、まさにこうしたプロジェクト型の学びを通じたことによる成長ではないかと思います。

聞くところによると、生徒さんたちは、プロジェクト型の学習における課題の設定や関係団体へのヒアリング、仮説、トライアル、検証を自分たちで考えて進めていくそうです。
もはや大学生レベルのことを実践しています。

そこに至るまでにどのようなプロセスを経て、自分たちの学習を進められるようになるのかにすごく興味があります。
機会があれば今後このようなところにもぜひ関わっていきたいですね!
(K先生、よろしくお願いします笑)